とりあえず共に生きるという意味 #2

昨日のブログが思いのほか長文になってしまったので、書こうと思っていたことの残りを書きます。

埼玉に「キャベツの会」という団体があります。障害のある人もない人も地域で共に学び、働き、暮らすことを目指している会です。
どうして「キャベツの会」という名前なのか聞いたことがあります。そうしたら「サベツだろうとキャベツだろうとどうでもいい。地域で共に生きることから始まるんだ」という意味とのことでした(2018/06:これ本当に本当だったか怪しいです。間違っていたらごめんなさい)

また、知的障害の子をもつ父親で、「当たり前に差別されたい」と言っていた人もいます。
地域との接点のない箱の中で生きるぐらいなら、普通の人が当たり前に暮らす地域の中で差別を受けながら生きるのを選ぶ、という意味です。

「差別」の反対語は何でしょうか。「平等」ですか?
皮肉っぽいと思われるかもしれませんが、私は「無関心」だと思います。この時代、もし差別をなくしたら、誰も何も関心を持たなくなる「無関心」な状態だけが残るでしょう。もとから関心がなければ、ネグレクトですらありません。「無関心」とは、そこに存在がないのと同じことなのです。
それを知っているからこそ、上で書いた人たちは、あえて差別が存在する「当たり前の地域」にこだわっているのです。

最近、「弱い紐帯」が重要と言われるようになりました。ちょっとした知り合いの知り合いぐらいのネットワークのことです。
朝のいつもの通勤ラッシュで、バスの座席で奇声をあげる彼女や、電車内をウロウロする彼。彼らに対して「ウザい」とか「死ねばいいのに」と思っているとしたら、それはむしろ弱い紐帯で結ばれているといえるのかもしれません。差別心であれ、関心を向けていることは確かなのですから。

昔、制度もなくバリアだらけだった時代、多くの障害者運動では差別をなくせと叫んでいました。そして制度が整備されバリアフリー化も進んだ今、目に見える差別は少なくなりましたが、障害をもつ人を取り巻く人間関係自体も希薄になった気がします。
これが果たして、かつての障害者運動が望んだ未来の姿だったのでしょうか。障害をもつ人に対して「無関心」な人が増える世の中を求めていたのでしょうか。
時代は戻りません。でも変えていくことはできるはずです。「弱い紐帯」がクローズアップされるような最近の風潮に、まだ救いはあるのではないかと感じます。