過激的映像表現論

特にタイムリーな話題でもないのですが、最近読んだ本の中で触れられていたので。

知っている方も多いと思いますが、「バトル・ロワイアル」という小説・映画があります。
小説のほうは高見広春という作家が書いたもので、ある小説賞に応募して選から漏れたのですが、サブカル系の出版社として知られる太田出版に原稿が持ち込まれ、1999年に刊行されました。
この小説を原作とした映画は、「仁義なき戦い」などの作品を手がけた故・深作欣二がメガホンを取り、2000年に公開されました。公開当時は、そのストーリーや映像表現をめぐって賛否が巻き起こり、社会現象にまで発展しました。

大まかなストーリーは、以下のとおりです。
中学の修学旅行中、3年B組の生徒たちが乗っていたバスごと拉致され、離島に隔離されます。彼らは、自分たちが国の法律で定められた「プログラム」の対象になったことを知ります。それは、一人ひとりに武器を与えられ、お互いに殺しあうことを強いられるというものでした。お互いの結束を絶たれた状況で、自殺を選ぶ者や、自己防衛のため仕方なく人を殺してしまう者、そして積極的にゲームに参加しようとする者など、様々な対応をとる生徒たち。そんな中、主人公はクラスメイトと協力しながら、このゲームからの脱出を試みます。

小説版と映画版では異なる部分がいくつかあるのですが、いちばん大きく違うのは「教師キタノ」の存在ではないかと思います。
小説に登場する担任の「坂持金発」は、国家体制に組み込まれた官僚的で冷徹な人間として描かれています。これは、小説版の舞台が、全体主義国家の「大東亜共和国」という一種のパラレルワールドであることの由縁でしょう。
一方、映画版の「教師キタノ」は、かつて生徒からいじめられ、学校に居場所を失った教師でした。打ちのめされた体験の反動から、残忍さを身につけて戻ってきたと解釈することができます。その「教師キタノ」の屈折した内面が、終盤に描かれます。誰もいない校庭の朝礼台でラジオ体操をするシーン、中学生の前田亜季に一緒に心中してくれと言うシーン、そして前田亜季に向けて撃った銃がなぜか水鉄砲。これらのシュールな姿は「壊れた大人」の象徴に見えます。

小説版・映画版、それぞれ良し悪しがあると思いますが、14歳の少年少女に相対する「大人」の苦悩については、映画版のほうが深く描かれているといえるでしょう。ちなみに「教師キタノ」を演じているのは、ビートたけしです。個人的には、ビートたけしはそれほど好きな芸能人ではありませんが、この映画に限っては、うまく演じていると感じますし、いい起用だったと思います。

バトル・ロワイアル

以前、この映画について、ある人と議論をしたことがあります。その人は、「バトル・ロワイアル」は暴力を賛美する映画で、社会的によろしくないという考えでした。特に、「教師キタノ」は生徒に殺人を促している存在であり、それを演じていたビートたけしは、文化人ヅラする前に「バトル・ロワイアル」に出演したことを謝罪すべきだと言っていました。
私は上述したとおり、「教師キタノ」は「壊れた大人」の象徴として捉えられると評価しています。その「壊れた大人(たち)」が、少年少女に殺人を強いているのだと。また、暴力の賛美などはしておらず、むしろ主人公の目線を通して暴力を否定的に描いており、それはきちんと見ればわかることだと考えています。

終盤の「教師キタノ」のシーンは、確かにシュールでやや抽象的です。残虐なシーンがあることも認めます。しかし、個々のシーンを断片的に見るのではなく、ストーリー全体を通して読み取れば、映画の真意は理解できると思います。その読解力が十分に備わっていないであろう年齢の子どもは、R15指定によって見ることができないのですから、もうそれで十分ではないかと思うのです。


いわゆる「過激な映像表現」として、もうひとつ私が思い出すものがあります。AKB48が2010年に出したシングル「Beginner」のプロモーションビデオです。
このPVは、「サッポロ黒ラベル 温泉卓球編」のCMディレクターや、映画「嫌われ松子の一生」などで知られる、中島哲也が監督した作品でした。イベントなどで先行上映されたものの、グロテスクで刺激が強いとの声が上がり、事実上お蔵入りになった(公式見解では、当初からCDには収録しない予定だったとされている)ものです。

以下、PVの概略です(一部、私自身の解釈が入っています)。
7人のメンバーがゲームのプレーヤーとなり、自分そっくりなアバターを操作して敵と戦います。プレーヤーはコントローラーを手に持ち、ヘッドホンと首輪を装着しています。その首輪には、長いチューブのようなものがつながれています。
ゲームが始まると、篠田麻里子アバターが立方体の敵に顔を踏み潰されたり、渡辺麻友アバターが槍のような形の敵に串刺しにされたり、小嶋陽菜アバターが刃物状の敵に頭を上下真っ二つに切断されたりして、あっけなく死んでいきます。
大島優子アバターは、大きな三角錐型の敵に突き刺されます。さらに、その敵はアームを繰り出して前田敦子アバターを壁に押さえつけ、右手に杭のようなものを突き刺します。
その瞬間、プレーヤーの前田敦子は顔をしかめ、コントローラーを床に落とします。
大島優子アバターは、最後の力を振り絞って、前田敦子アバターを押さえつけているアームにミサイルを撃ち込みます。破壊したことを確認し、静かに微笑む大島優子アバター。その直後、直方体に変形した敵に身体を潰されます。
プレーヤーの前田敦子の手からは血が流れています。立ち上がり、首輪のチューブが外れると、痛みに耐え切れず叫び声を上げます。
すると、前田敦子アバターが「覚醒」します。ダメージを受けた右手を引きちぎり、武器のような鋭く尖った腕を再生させると、その腕を敵に向かって突き刺します。同じような腕を持った松井珠理奈アバターも攻撃に加わり、敵は消滅します。
自らの手でチューブを外し、立ち上がるプレーヤーたち。ただ一人、高橋みなみだけがチューブを付けたまま、歩き出していきます。その腕を大島優子がつかみ、引き寄せ、抱きしめます。チューブを引き抜く小嶋陽菜。コントローラーの画面には「GAME OVER」の文字が表示されていました。

Beginner

衝撃的なシーンがまざまざと描かれる一方、ストーリーは少し抽象的ではあるのですが、それでもメッセージは伝わってきます。
人は、ゲーム上で平気で戦い合ったり殺し合ったりし、そのことにさほどの感情も抱かないでいます。しかし、それは生身の人間に置き換えれば、痛みを伴い血を流す行為にほかなりません。さらに、プレイヤーがゲームに過度にのめりこむことにより、ゲーム世界と現実世界を同一化する危険性に対して警鐘を鳴らしている、と読み解くこともできます。そのことに気づいたメンバーたちは自ら、ゲームを「降りる」ことを選択するのです。
わずか4分半ほどの映像の中に強いメッセージがこめられた、よくできた作品だと感じます。

国民的アイドルとしては、賛否両論を呼ぶものよりも、万人に受けるものを世に出すほうが望ましいのは確かでしょう。だから、この作品がお蔵入りしてしまったのは、仕方のないことだと思います。
けれども、やっぱり「惜しい」と感じてしまう私がいます。「真意を理解できない人が多いだろう」という考えで映像表現を否定するのは、人の感受性を見くびった行為なのではないかと。残虐なシーンだけに目を奪われることなく、ストーリーがもつメッセージを理解し共感する人は、きっと大勢いるはずだと思うのです。