本人の代わりに謝って、何を守るというのだろう

スーツと煎餅(せんべい)はいつも職場に置いてある。煎餅はできるだけ日持ちのするものでなくてはならぬ。障害者施設で30年以上働いてきたKさんはそう言って笑う。
コンビニで商品を並べ替えたがる障害者がいる。順序や形状に独特のこだわりがあり、自分の中のルールに従っているだけなのだが、店にとっては迷惑だ。幼児の頭をなでようとして痴漢(ちかん)と間違われる。光るモノが好きで見知らぬ人の眼鏡を触ろうとする。銭湯で入れ墨のある人の背を触りに行った人もいる。
けっして悪意からではないが、わかってもらえない。冷たい目で見られ、寂しくて、自分を傷つける。思いをどう伝えればいいのかわからず混乱している。そんな障害者を責めてはならないとKさんは言う。親のしつけのせいにもするな。でも、相手は迷惑している。
「だから僕たちがあやまるんです。もう、ずっとずっとあやまっている」。Tシャツにジーパン姿ではおわびの気持ちが伝わらない。安っぽくて地味な色のスーツがいい。菓子折りなんてすぐには受け取ってくれない。だから、賞味期限の長い煎餅でなくてはならない。
国連障害者権利条約が採択され、障害者虐待防止法が成立した。障害者差別をなくす条例も各地で施行される時代になった。しかし、日常風景のパズルは「権利」や「差別禁止」の印(しるし)のないピースで満たされている。
頭を下げることを恥じてはならない。障害者や家族を守り、相手の怒りを鎮めて理解を促す。プロの福祉職員の「あやまる力」だ。利用者(障害者)を幸せにするんですとKさんは言う。「彼らを守るためなら、なんべんだって土下座します」。
毎日新聞「余録」2012年11月26日付

こんなのを美談にしていいのでしょうか。私はおかしいと思っています。

まず感じるのは、《プロの福祉職員の「あやまる力」》などと、ことさらに美化することへの違和感です。
相手の怒りを鎮めるためにおわびの気持ちを強調することぐらい、普通のサラリーマンでも、コンビニやファストフードの店員でも、誰でもしています。ほかの人を守るために謝るのだって、委託・受託関係や下請け・元請け関係、上司・部下の関係や同僚同士などで、いくらでもあることだと思います。
いわゆる「感情労働」は、別に《プロの福祉職員》の専売特許じゃないんです。

さらに引っかかるのは、謝るのは「彼らを守るため」という点です。
障害者の行動が「けっして悪意からではない」と言いつつ、「相手は迷惑している」のは事実だから、代わりに職員が「スーツに菓子折り」で謝るというロジックですが、解決策としてちょっと安易すぎませんか?

社会では非障害者が多数派なので、「迷惑行為」の基準はどうしても非障害者の論理が優先されがちです。でも、そもそも「迷惑行為」の基準というのは、明確かつ絶対的なものではありません。何が「迷惑行為」にあたるかの線引きは、行為を行う側とされる側の間で絶えず揺れ動くものです。

障害者と非障害者では価値基準が違い、その価値基準が違う障害者と非障害者がともに街で生活するのですから、あつれきが生じるのは当たり前の話です。あつれきの芽を摘んでも、障害者の社会参加は進まないと思います。
福祉職員にとって真に必要なことは、障害者本人の意思を代弁しつつ、むしろあつれきを支援し、本人と相手との新たな落としどころを見つけていくことではないかと思うのです。

「彼らを守る」とは、単に障害者や家族を非難の声から守ることではなく、社会の一員として生活する存在としての障害者を守ることであるべき、と思います。
《プロの福祉職員》が障害者の理解者であろうとするなら、その職員が本当にすべきことは、障害者のアドボケイトと社会参加の支援です。

障害者が相手に何かした時に、福祉職員がその場で口頭で「すみません」と謝りの言葉を言う程度なら、本人が円滑に社会生活を送るための一種の処世術かもしれませんが、それは賞賛されるようなものではなく、むしろ後ろめさがあるべきものだと思います。そして、その謝罪は、非障害者側に媚を売って障害者をおとしめることにならない範囲でなければなりません。
私は、「スーツに菓子折りで土下座」は、一線を超えた、行き過ぎた行為だと考えます。こうした行為が、障害者の意思を代弁しているものだとは思えませんし、障害者の利益に供する行為だとも思えません。

もし、あなたが利用者だとしたら、福祉職員にこんなことされたいですか? こんなことされたら「幸せ」だと思いますか?