とりあえず共に生きるという意味 #4

これまで3回のエントリ(#1#2#3)で、障害者を取り巻く施策の充実や差別をなくす方向に進むにつれて、逆に障害のある人とない人が分け隔てられてきていることについて書いてきました。

具体的には、障害者に対する支援が福祉サービスとして制度化し充実したことによって、「障害者+介助者」の立場・役割が社会の中で固定化してきたこと。それにより、介助者ではない一般の人が障害者にかかわる機会が少なくなるとともに、社会全体として「無関心」になってきたのではないかという懸念。また「軽度の障害者は雇用、重度の障害者は福祉」というような振り分けが制度の充実によって厳格化し、分断が細分化してきたこと、等です。

しかし、これらの支援や振り分けは、障害者が他の人々と平等に生きるための権利として獲得し、享受しているものでもあります。ということは、つまり「平等に生きる権利を得る・差別しない」のと「分け隔てられない・共に生きる」のは同じではないということなのです。

http://yellow-room.at.webry.info/201201/article_2.html

ここで特に強調しておきたいのは、「分け隔てられない」ということの意味について。障害者基本法改正にも盛り込まれたが、総合福祉法・骨格提言ではあまり明確でない。

「分け隔てられない」ことをめざすのは、社会の現状が限りなく分け隔てられる方向に突き進んでいるからであって、けっして「昔に帰れ」と求めたり、「健常児と一緒にいると刺激を受けて言葉が出る」とか、「クラスの子がやさしくなる」とか言いたいわけでは決してない。

総合福祉法・骨格提言では、「他の者との平等」が前面に出されているが、これと「分け隔てられない」ということとは意味が違う。「平等」とは「差別がない」ということであり、差別があることに対して、差別をなくすことが必要になる。

(中略)

差別をなくすことは、差別されていた者に、新たな権利を付与することである。権利を付与するとは、障害者自立支援法の場合でもさんざん思い知らされたように、権利を付与されるための資格要件を定め、個々人がその要件に合致しているかどうかを評価する手続きが必要になる。権利の付与のために、ある特定の要件に合う人々をくくり出さなければならない。そのことにより、権利のある人とない人が分け隔てられる。

上に引用したブログで「「分け隔てられない」ということの意味について…あまり明確でない」と書かれている、障害者総合福祉法・骨格提言について見ていきたいと思います。この骨格提言は昨年(2011年)8月末に取りまとめられたもので、これを元に厚労省が法律文書化し、今国会(2012年通常国会)中に法案が提出される予定になっています。

※障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/dl/110905.pdf

骨格提言 8ページ(前文)

障害の種別、軽重に関わらず、尊厳のある生存、移動の自由、コミュニケーション、就労等の支援を保障し、障害者が、障害のない人と平等に社会生活上の権利が行使できるために、また、あらゆる障害者が制度の谷間にこぼれ落ちることがないように、必要な支援を法的権利として総合的に保障し、さらに、差異と多様性が尊重され、誰もが排除されず、それぞれをありのままに人として認め合う共生社会の実現をめざして制定されるものである。

長い文章ですが、前半では他の人々との平等のための権利と支援の保障について、「さらに」を挟んだ後半では別け隔てられないことと共に生きる社会について書かれています。前半と後半は一見つながっているように見えますが、前半についてはこの法律で直接的に障害者に対して保障すると言っているのに対し、後半については「実現をめざして」と言っている点が、ニュアンス的に大きく違います。暗に、後半は総合福祉法が直接携わる事柄ではないと言っているように受け取れます。
このことは、この後の「法の目的」でも伺えます。

骨格提言 8〜9ページ(法の目的)

・この法律が、憲法第13条、第14条、第22条、第25条等の基本的人権や改正された障害者基本法等に基づき、全ての障害者が、等しく基本的人権を享有する個人として尊重され、他の者との平等が保障されるものであるとの理念に立脚するものであること。

・この法律が、障害者の基本的人権の行使やその自立及び社会参加の支援のための施策に関し、どこで誰と生活するかについての選択の機会が保障され、あらゆる分野の活動に参加する機会が保障されるために必要な支援を受けることを障害者の基本的権利として、障害の種類、軽重、年齢等に関わりなく保障するものであること。

・国及び地方公共団体が、障害に基づく社会的不利益を解消すべき責務を負うことを明らかにするとともに、障害者の自立及び社会参加に必要な支援のための施策を定め、その施策を総合的かつ計画的に実施すべき義務を負っていること。

・これらにより、この法律が、全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するものであること。

1番目で人権尊重と他の者との平等、2番目で選択権・機会と支援の保障、3番目で国・地方公共団体の責務が書かれたあと、「これらにより」として、4番目に共に生きる社会の実現について述べられています。いかにも、1〜3番目を達成すれば、自動的に4番目も実現するかのように読めます(そして、ともするとそのロジックに飲み込まれそうになってしまいます)。

しかし、上述したように、「平等に生きる権利を得る・差別しない」ことと「分け隔てられない・共に生きる」ことは同じではありません。だから本来であれば、無差別平等を実現するための権利・支援保障の施策とはまた別に、「共生する社会を実現する」ための施策を行う必要があるのです。にもかかわらず、それについては120ページ以上ある提言のうちでこの1ヶ所しか見当たりません。

骨格提言 113〜114ページ

【表題】就労系事業に関する試行事業(パイロット・スタディ)の実施
【結論】
○安定した雇用・就労に結びついていない障害者に適切な就業の機会を確保するため試行事業(パイロット・スタディ)を実施し、賃金補填や仕事の安定確保等を伴う多様な働き方の就業系事業や、就労分野における人的支援のあり方を検証する。

(中略)

(2) パイロット・スタディの対象
パイロット・スタディの対象は全国で80か所程度とし、下記のような事業所とする。
(1,2 引用略)
3. 箕面市等、地方公共団体独自で最低賃金をクリアするための補助制度を設け、その下で運営されている事業所の他、新たに起業する事業所等。
4. 滋賀県及び札幌市等、地方公共団体独自の制度として障害者と障害のない者がともに働く職場形態となっている事業所。

たった1ヶ所、それも「試行事業」の一部でしかありません。「共生社会の実現」を法の目的、それもまるで最終目的のように掲げている割には、全くお粗末な扱いです。

骨格提言 12ページ(法の理念)

医学モデルの視点からいえば、障害者の問題は、障害者自身が自己責任により訓練と努力で克服するべきものということになるが、かかる古い考え方から脱却し、むしろ、障害者の社会参加を排除して、適切な支援を実施しない社会の側が障害の原因であるという社会モデルへの転換を明確化しない限り、この国の障害者施策のあり方は旧態依然として変わらない。

「共生する社会を実現する」と言うならば、まずは「社会」のあり方を検証した上で、究極的には「社会」の変革にまで踏み込まなければならないと思います。上の「法の理念」は一見、社会を変えるべきと述べているように見えますが、そうではありません。
適切な支援によって障害者が社会参加できるようにすべきと言っていますが、その「社会」とは相変わらず「健常者中心の社会」です。福祉サービスとして特別な支援を提供し、障害者にゲタを履かせ、健常者に近づけて社会参加できるようにしますが、一方の「社会」側からの歩み寄りはほとんどないままです。

https://twitter.com/timtamatmit/status/160976254399557632

「障害者も社会にバリューが出せる」という言説は、一見いい言葉に聞こえるけど、裏に(健常者が出している「バリュー」が社会のバリュー)という価値観が内包されている。教育支援しかり、労働支援しかり、「いかに健常に近づき、健常者の中で生きられるようになるか」を求めていることが多い。

https://twitter.com/timtamatmit/status/160978454047756288

障害者は、社会や会社への適応が難しくバリューが出しづらい、と言うけれど。そもそも、「人間がパーツのごとく扱われ長時間労働する」ような環境に適応することは「良いこと」なのか、という問いはあっていいと思う。その視点を踏まえた上で支援者側がどの立ち位置をとるかは自由だけど。

「社会」が「健常者中心の社会」である以上、いくら「障害の種類、軽重、年齢等に関わりなく保障する」と言っても、「適切な支援」を行なっても社会参加するに足りない障害者は、結局「適切な支援」のもとに分け隔てられることになるでしょう。この負のスパイラルを解消するためにも、やはり「社会」全体のあり方を問い直すという視点はなくてはならないと思います。

骨格提言の冒頭に戻りますが、「障害者総合福祉法がめざすべき6つのポイント」の中に、「障害は誰にでも起こりうるという前提に立ち」(骨格提言3ページ)という記述があります。誰にとっても人ごとではないから皆さん自分のこととして考えて、というような意味の、よく使われる言い回しです。
しかし、この考え方を「前提」とすることには、かなりの危うさがあると思うのです。この「前提」に従えば、それでは自分にも起こりうるとは思えない人の人権は尊重しなくていいのか、ということになるからです。そして、誰にでも起こりうると思われそうな人と思われなさそうな人との間で、また分け隔てられるような気がしてしまうのです。

https://twitter.com/_hushabye_/status/14337809678606336(リンク切れ)

学生の頃。マイノリティの人も居て良いと思います、と言った子に、先生が、君に居て良いなんて言われなくても、居るんだよ。とバッサリ切り返したとき、居るということに誰の承認も要らないんだって、居て良いなんて誰にも言わせはしないんだって、わかった。

自分にも起こりうるとか起こりえないとか、そんなことを考える以前に、マイノリティの人は現にここにいるのです。
「誰にでも起こりうる」からというのを「前提」にしているうちは、この議論は障害者の問題としてだけで終わってしまうと思います。ほかのマイノリティの問題、あるいは社会全体の権利の問題を考える方向に発展させることはできないでしょう。

実のところ、骨格提言に対して、私や引用したブログの筆者のように考えている人はごくわずかで、全面的な賞賛が圧倒的大勢を占めています。
今回の骨格提言は「Nothing about us without us!(私たち抜きに私たちのことを決めるな!)」の精神に基づき、主な障害者団体や支援団体等が策定のプロセスに参加したという点で画期的なことは確かです。しかし、その「代償」もあるのではないかと感じています。「自分たちが作ったもの」なので批判がはばかられること、当事者がゆえの視野の狭さ、「当事者が作ったから正しい」という免罪符、等です。

「小異を捨てて大同で団結」したという自画自賛の声もありますが、裏を返せば、この骨格提言がベストなものではないことの言い訳のように聞こえます。今春以降に出される総合福祉法案も、骨格提言以上のものになることはないでしょう。しかし、これが終わりなわけではなく、私たちの生活は続きます。いったん法律が制定された後も、絶えず見直し、チェックする姿勢は欠かせません。
だからこそ、忌憚のない意見を言い合い、指摘し合うことが必要なのだと思います。当事者といっても、十人十色で千差万別。一人の当事者が他の当事者たちの代表者になれるはずはありません。一人の当事者は「自分自身の当事者」でしかないのです。そう、あなたも、私も。