風呂敷広げよう

いつまでもブログのトップが年賀状なのもアレなので、そろそろ更新。
予告通り、この4月に入学する大学院での研究テーマについて書きたいと思います。

とはいうものの、とても1つのエントリで書きつくせる内容ではありません。どう書いていこうかと悩んでいるうちに、年明けから半月以上が経ってしまいました。
悩めば悩むほど、どんどん腰が重くなりそうなので、「エイヤー」な気持ちで風呂敷を広げます。大風呂敷になるかどうかは自分しだい、です。

大学に提出した研究計画書には、十分に自分の考えを落としこめませんでしたが、未だそれを補完する力量もなく…。なので誤解を恐れつつも、研究計画書とほぼ同内容のまま、言葉だけやわらかくしてアップします。
書き足りていない部分は、追って別エントリで書くつもりです。内容を修正したい部分もありますが、それも追って考えます。このエントリは、とりあえずの取っ掛かりと捉えていただければ幸いです。


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かつて、障害をもつ人の生活において、本人の意思よりも親や専門家らの意向が優先される時代がありました(今も、かもしれません)。
といっても、親や専門家の干渉は、必ずしも悪意によるわけではありません。むしろ、干渉の多くは善意から生じるものであり、善意であるがゆえに、簡単に「悪だ」と割り切れないものです。

立場の強い人が立場の弱い人の意思にかかわりなく、その人の利益を慮って行為(干渉・介入)を行うことを、専門用語で「パターナリズム」といいます。パターナリズムという用語は、法哲学、政治哲学、生命倫理学、医学、社会福祉学など、さまざまな領域のさまざまな文脈で用いられ、考察されています。

1960~70年代以降、パターナリスティックな干渉を障害をもつ人が拒否し、「自分のことは自分で決めたい」と主張する動きが高まりました。パターナリズムに対抗するものとして、「自己決定」の尊重を求めたのです。

しかし、パターナリズムと自己決定は、必ずしも相反するものでしょうか?
パターナリズムも、自己決定も、「明確な意思決定が求められている」という点では共通であり、同じ問題を抱えていると考えることもできます。

障害をもっていない人の場合、ごく日常の生活場面であれば、さして明確な意思を持たなくても過ごせるでしょう。しかし、たとえば身体介助が必要な人の場合、ほかの人に介助を頼むためには「自分がこうしたいから、こう介助してほしい」という明確な意思が必要になります。明確な意思は、介助を受けるたびに日常的に求められます。そして、明確な意思を持たない(持てない)場合には、パターナリスティックな形での介助を受けやすくなります。

知的障害をもつ人など、意思決定や意志伝達が不得意な人の場合は、さらに複雑です。保護者や援助者などによって、意思の「代弁」が行われるからです。
代弁は、本人意思の伝達を支援するための重要な行為ではあります。しかし一方で、誰も、他者の意思を100%完全には代弁できないということも、わきまえておく必要があります。代弁する内容には代弁者の意思が少なからず入り、「代弁と称したパターナリズム」になる危険性が常にあるのです。

世間一般の価値観では、意思は明確なほうが良い、とされています。えてして、曖昧な意思は、無視されたり排除されたりしがちです。
しかし、曖昧な意思も、本人が持つれっきとした意思であることに変わりありません。自己決定の強要や、過剰なパターナリズムを防ぐためには、明確な意思(①はっきりと明瞭で、②決定や表出が迅速で、③周りからの影響で変化しない意思)だけでなく、曖昧な意思(①漠然としていて、②ゆっくりで、③周りに影響される流動的な意思)も、同じように尊重されることが必要です。

近年の障害者支援は、「自立支援」の名のもと、本人の主体性が重視される傾向にありました。でもその一方で、実際の支援現場では、障害をもつ人に必ずしも明確な意思を求めるのでなく、曖昧な意思を丹念に汲み取るような実践も行われています。
本研究はこうした、曖昧な意思の把握と意思伝達の支援のプロセスに焦点を当て、分析します。あわせて、非パターナリスティックな代弁のあり方についても考えていきます。

さらに本研究では、障害者支援という枠組みにとどまらず、障害をもたない人を含めた社会での意思尊重のあり方を問い直すことも目的とします。
現代は「契約社会」といわれ、さまざまな事柄に対し、迅速・的確に意思決定することが求められる風潮です。このような現代社会に対して、「曖昧な意思の尊重」というオルタナティブな視点を提示できればと考えています。


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文字数の制約が厳しく、全体として抽象的な文章になってしまいました(上の文章は1500字弱ですが、実際の研究計画書での字数指定は「1000字程度」でした。上に書いた内容に加え、研究計画書には具体的な研究方法まで入れたので、かなりキツキツでした…)。
また、学問や研究の俎上に載せるため、枝葉の部分を切り落として、論理を単純化していることも否めません。

「リアル」は、もっと混沌として非論理的なものです。自分や自分の周りの人たちの「リアル」から、研究が離れないようにしたい、と強く思います。研究のための研究にはしたくない、です。

次回のエントリ以降、上に書いた文章内のいくつかのキーワードについて、自分の中の「リアル」と絡めながら書いていきたいと思います。たぶん、もっと具体的に、深く、自分の問題意識の原点を示せるのではないかと思います。