善意の悪意

3年ほど前、社会福祉士の養成校に通っていた時、障害者の事業所で1ヶ月ほど実習をしました。そのとき同席させてもらった会議で話されていたことが、今でも心に残っています。

その事業所は主に身体障害の利用者が中心だったのですが、ある時、精神障害(薬物依存症)と身体障害を重複でもつ人から、ショートステイを利用したいという希望があったのだそうです。
最初、事業所としては前向きに受け入れを検討していました。しかし、薬物依存症の当事者で支援者でもある人から、厳しい問いかけがあったとのこと。

この事業所には、薬物依存症の専門知識をもった人がいない。でも一旦引き受けたら、簡単に放り出すわけにはいかない。ずっと関わり続ける覚悟はあるのか。責任は持てるのか。「何とかしてあげたい」という善意は、悪意になることもある、と。

本人に良かれと思ってやる行為が、必ずしも良い答えになるとは限りません。
その行為は、悪意や偽善ではなく、まぎれもない善意から生じるものです。それゆえに、行為を受ける側や周囲の人は、その行為を真っ向からは否定しにくいものです。
だからこそ、行為をする側自身が「善意の悪意」になっていないかどうか、絶えず自問自答することが大切なのだと感じました。
(※補足:でも、これからもずっと門前払いするのではなく、こういう人も受け入れられるように、体制を整えたり勉強したりしたいとのことでした。)

「善意の悪意」と呼ぶそれは、専門用語では「パターナリズム」といいます。

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では家父長主義、父権主義、温情主義などと訳される。(Wikipediaより)

大学時代にボランティア活動を始めてから、たびたび私は、自分の中のアンテナに引っかかるものを感じていました。それらには何か共通性がありそうだと感じつつも、長い間うまく名前がつけられないままでした。

社会福祉士の養成校で「パターナリズム」という言葉を知った時、私は視界がパッと開けたような気持ちになりました。自分のアンテナに引っかかる問題が、「パターナリズム」といわれる概念として、自分と同様の問題意識を持つ多くの人によって考察されていることを知ったからです。

役に立つ、という報酬


私の問題意識の、おそらく原点に近いことについて、書きたいと思います。

今はあまり聞かなくなりましたが、「有償ボランティア」という言葉が盛んに使われた時期がありました。それに対して、ボランティアは基本的に無償であるべき、という意見もありました。
しかし、ボランティアが得る報酬は、なにもお金だけではありません。「人の役に立っている」という思いをやりがいにしている人であれば、そういう思いになることが報酬である、と言うこともできます。
これに対しても批判があります。役に立っているかどうかは行為の受け手が決めることであり、与える側が「人の役に立っている」と思うのは、おごりであり自己満足である、と。

「人の役に立っている」という気持ちは、自分の存在意義の肯定であったり、行動の原動力であったりします。こうした気持ちを感じてはいけないと言うのは、そもそものボランタリズム(自発性)を否定することにもなりかねません。
しかし、「人の役に立ちたい」という気持ちの中に、「かわいそうな人に」「弱い人のために」という要素はないでしょうか。そんな意識はないと言う人も、無意識の中にも100%ないと言い切れるでしょうか。
「役に立ちたい」と「上から目線」は紙一重だと思うのです。そして、その紙一重であることを、いつも心に留めておくことが大事だと思うのです。

満足感を与える、ということ


さらに、問題意識の根底近くにあるエピソードについて書きます。
(※このことについては、だいぶ以前に長文のエントリも書いています。)

かなり昔のことですが、障害者団体でボランティアや仕事をしていた頃、ちょくちょく街頭カンパ(募金)の活動に参加しました。駅前などで、目的を訴えながらカンパを呼びかける間に、街の人たちのさまざまな反応を見ることができました。

まず、カンパを呼びかける側に車いすユーザがいるかいないかで、集まる金額が大きく変わります。これには車いすユーザの人でさえ、「人じゃなくて車いすに募金してるんじゃないの」と苦笑していたほどでした。
車いすに座ってる人」という、「障害者」のステレオタイプとして思い描かれやすい存在は、困っている人として一般の人たちから受け入れられやすいのでしょう。一方、一目で障害者とはわかりくい、たとえば知的障害の人ばかりのカンパ活動だと、お金が集まりにくいのです。目に見えない部分での困り感というのも、たくさんあるにもかかわらず。

時々、小銭ではなくお札をカンパ箱に入れてくれる人がいます。それはありがたいことですし、カンパを呼びかけているほうも、ついつい「ありがとうございます」の言葉に力がこもります。
でも、そういう大金を入れる人に限って、私たちの話を聞いていません。もちろんお金を集めることも大事ではありますが、街の人たちに自分たちの主張を知ってもらうこともカンパ活動の重要な目的でした。話を全然聞かずにお金だけくれるのでは、意義が半減なのです。

話を聞いていない人が、どういう気持ちでカンパしているのかも気になります。
もし「かわいそうな人たちに恵んであげたい」という「上から目線」の善意だとしたら、それは私たちが求めるものではありません。そういう人たちに「いいことをした」という満足感を与えているとしたら、それはよくないことじゃないか、とも思うのです。

公共の電波を使って行う意味


もうひとつエピソードを書きます。某24時間テレビについてです。
(※このことも、だいぶ以前にやや長めのエントリを書いています。)

私は、チャリティビジネス自体を否定するつもりはありません。リフトカーや車いすなどの寄贈を受けた団体・個人を、たくさん知っています。数十年にわたって継続し、成果を上げている功績も認めます。
しかし、公共の電波を使って行う活動として、やり方が妥当なのかという点には疑問を抱かざるを得ません。

障害者などの社会的弱者を「大変なのに頑張ってる人」という型にはめ、感動モノに仕立てる番組構成。この「パターン」を繰り返し放送することで、社会的弱者へのステレオタイプな見方をさらに固定化させているのではないかと危惧します。
「大変なのに頑張ってる人」の姿に感動して募金するというのは、確かに善意の「役に立ちたい」という気持ちではありますが、明らかに「上から目線」を伴っています。公共の電波を使ったキャンペーンとして「上から目線」を助長するのはどうなんだろう、と思います。

チャリティ番組として成り立たせるためには、社会的弱者のことを「大変なのに頑張ってる人」と思わせ、視聴者に感動させて募金させる方法しかないのでしょうか。仮に、それしかお金を集める方法がない、あるいはそれがお金を集める効率的な方法だとしても、それはいいことなのでしょうか。
人々の差別心を取り除くことも、お金を集めるのと同じぐらい、チャリティ番組としての大きな意義ではないかと思うのですが。

 

次回以降のエントリでは、さらに別のキーワード、「自己決定」や「代弁」といったことについて書く予定です。