ぐずぐずしようよ

精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は、実は西欧人の「気のみじかさ short-temperedness」の現われだ、という面白い指摘をしている。つまり、人間は様々な状況の中で、外から与えられる刺激に対してそれなりに反応しているわけだが、刺激と反応の間の時間的間隔が短ければ主体的に「決断」しているように見え、長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。

―― 仲正昌樹『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』ちくま文庫 p.199-200

前回のエントリでも書きましたが、数年前の夏、私は社会福祉士の資格を取るため、主に身体障害の人がいる日中活動の場で実習をしていました。実習中のある日、障害のある高校生を対象にした活動プログラムの説明会があって、一緒に参加しました。
説明会には、10数人の高校生たちが親同伴で来ていました。スタッフの意向で、高校生と親は同じ室内の離れた場所に席が用意され、説明会の開始を待っていました。

定刻になり、スタッフの挨拶とともに説明会が始まりました。しばらくして、プログラムの日程の話になった時のことです。
配られていた資料を見るようにとスタッフが言った瞬間、何人もの親がさっと立ち上がりました。そして、離れて座っていた自分の子どものもとに駆け寄り、どうすればいいかを説明したり、資料を子どもが見やすいようにセットしたりし始めました。

その、あまりにも素早く、反射的で、少しの迷いもない行動に、私は驚きました。高校生たちが困った素振りをしたわけでもなく、また、そういった素振りを表せないほど高校生たちの障害が重いわけでもありません。むしろ、自分で文字が書けたり、自力歩行ができたりと、ADL的には「できる」高校生が多かったのです。

親が子どものことを「できない」と思って過干渉になっていたり、親の側が子離れできていなかったりするのではないか。子どもの行動を待ちきれずに、あるいは、周りの人を待たせることに引け目を感じて、先回りしてしまっているのではないか。そして、その先回りによって、高校生が自分の行動を自分で決め、自分の思い通りに動く機会を失わせているのではないか、と思いました。

その後、親たちは別室で説明を受けるために移動し、部屋に残った高校生たちはアンケート用紙を読みながら質問に答えました。その中に「親をうっとおしいと思うか?」という質問があったのですが、多くの高校生が「思わない」と答えていました。
親が子どもへの干渉に無自覚なのと同様に、高校生の側も親の干渉に対して疑問をもたず、ましてや、自分の意思の行使が妨げられているという意識ももっていなかったのです。

聞けば、特別支援学校(養護学校)では、生徒に対して放課後は一人で行動しないようにと言われていたり、一人で登下校できる生徒でも雨の日は送り迎えしてもらうようにと言われたりしているとのこと。
親だけでなく、特別支援学校の教育姿勢も、生徒の意識や行動に大きく影響を与えている気がしました。

このプログラムでは、街の中で自分の行きたい場所・スケジュールを決め、日中に自分で行動してみるという日程が組まれていました。自分で考えて行動することに慣れていないように見えた高校生も、その時間はそれなりに行動していました。
いきなり、明確な自己決定ができるわけではありません。時間をかけながら、なんとなく、迷いながら、時には周りに流されながら、です。それでも、本人たちが楽しく満足そうにしていたのが印象的でした。これだって、自己決定の形としてアリだと思います。

一方で、まだ高校2年生ぐらいでも、卒業後は◯◯大学の◯◯学部に入って、将来は社会福祉協議会で働きたい、といった明確な目標を話す生徒もいます。
自分の高校時代を考えると、ずいぶんしっかりしてるなあと感心したのですが、そんなに単純な話ではなく、ここにも特別支援学校の教育が影響しているのだといいます。卒業後に行き場のない生徒を出さないために、生徒に対し、卒業後の進路を早く決めるよう促すのだそうです。

私の職場は、知的障害の人を対象にした日中活動事業所ですが、説明会を開くといつも大勢の参加者が集まります。まだ中学1年になったばかりだというのに、高校卒業後の行き場を求めて親子で来るケースも珍しくありません。
障害をもつ人の進路は、障害を持たない人に比べると限られています。少しでも有利になるように、自分で考える能力がある生徒には早くから将来のことを明確に決めさせ、それが難しい生徒には親や教師が代わりに考える、ということなのでしょう。そういう現実と気持ちについては、察します。

でも、大変さの多い人ほど自己決定が求められる、あるいは「他己決定」が行われてしまう状況に、私は理不尽さを感じずにはいられません。
もっと、ぐずぐずしててもいい、という価値観もあってほしいなあ、と思います。

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)