折れやすい芯

数十年ぶりに、週刊少年マガジンなんてものを買ってみました。
読みきり作品の「聲の形」(大今良時・作)を読むために。
正直、ネットで言われているほどのインパクトは感じませんでした。が、考えさせられる部分はあったので、軽くレビューしたいと思います。

きこえの教室の先生
「賞が大事ですか!? 平等に音楽を学ぶことより!?」
担任
「学べますか?」(硝子を指さしながら)

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耳の聴こえない子に対して、教科書の音読や合唱をさせることに教育的意味はあるのか。普通学級に入った障害児は、担任の無理解やクラスメイトの暴力にさらされるのだ。だから…
と、統合教育に反対の人は、格好の材料として使うかもしれません。

確かに、ここで「平等」という言葉を使うのは、軽々しすぎる気がします。耳が聴こえない子が合唱をするのは、果たして「平等に音楽を学ぶ」ことといえるのでしょうか。
「機会の平等」なのか「結果の平等」なのか。考えれば考えるほど、答えが出ないものだと思います。この場面の善悪が「平等」という言葉で単純化されてしまうのには、少なからず違和感を覚えました。

しかし、問題は「障害児に対して」だけではありません。

校長
「この一本の芯は簡単に折れてしまいますよね
しかしクラスメイトという名の芯が結束すれば
折れない力強い芯となるのです」


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力強い芯を作るために団結させるという指導は、しばしば「折れやすい芯」を疎外する方向に行きます。
クラスの団結が一番の目的となり、生徒一人ひとりの多様性は二の次になってしまいます。このような考え方のもとだと、マイノリティの立場に立った生徒は、クラスの中で生きにくくなります。

マイノリティの立場とは、耳が聴こえないというような「障害」だけではありません。ショーヤがイジメる側からイジメられる側になったように、誰にでもマイノリティになる可能性はあるのです。強いとか弱いとか関係なく。