統合教育が支援につながるだのつながらないだの、という言説について

はじめに、ひとつ文章を取り上げます。
みわよしこというライターが、知的障害者による殺人事件に関して書いたものです。
元の文章自体ごく短いものですが、さらにかいつまんで引用します。

今、「責任能力を問えない人」の犯罪防止に何が足りないか(概略)(みわよしこ) - 個人 - Yahoo!ニュース

まず、みわは次のように述べます。

私から見ると、障害者による悲惨な犯罪が起こるたびに実現されてきた施策のかずかずによって、
「どういう治療や支援が、このような障害を持つ人にとって必要かつ適切なのか」
を考えることが先送りにされ続けてきているわけです。
施策の数々を一言でまとめると「ひたすら隔離する」です。

続けて、医療観察法精神保健福祉法による強制入院という形で、もっぱら隔離的な処遇が行われることが述べられます。
つまり、こういった「ひたすら隔離する」処遇は、必要かつ適切な治療や支援について考えたものではないと、みわは主張するのです。

そして突如、結論が示されます。

生活の場における適切な支援と行動援護。その前段としての教育、それも統合教育(障害の種類や有無で分離しない環境での教育)。
これに尽きます。

その後に、その結論に至る理由が示されます。

しかし起こった事件から見て、適切な支援や行動援護がないまま独居していたのは間違いないのではないかと思われます。
(後記:報道内容を引用しておきます。支援者・援護者が日常的に近辺にいる環境で、遺体を腐敗するまで屋内に置いておけるということは考えにくいです)

「分離教育」あるいは「施設に閉じ込める」は、一般的な社会生活を体験し訓練を重ねる機会を奪います。
だから生活の場は、地域でなくてはなりません。

分離教育では、本人は、特別支援学校や施設からいきなり地域社会に出てきて、偏見や差別その他にさらされることになります。
地域社会は、「いきなり隣に障害者がやってくるなんて、イヤ」ということになります。

みわは、強制入院も分離教育も隔離的な処遇であって、地域生活における「適切な支援と行動援護」ではないという結論に、持って行こうとしています。
そして、その結論に持っていくために、犯人の独居生活には「適切な支援と行動援護」がなかったのだと述べます。

しかし、「生活の場は、地域でなくてはなりません」としている時点で、この文章は論理破綻しています。
なぜなら、犯人の独居生活も、地域生活には違いないのであり、隔離的な処遇ではないからです。
また、「支援者・援護者が日常的に近辺にいる環境」が隔離的な処遇ではないとは、必ずしも言えません。そういう環境は、往々にして「動く施設」だったりするのです。

何よりも、統合教育がいかにも万能な処方箋であるかのような論調には、違和感を覚えざるを得ません。
みわは、「『あたりまえ』を20年か30年、地道に続けていくこと以外に、障害者による犯罪リスクを減らす方法はありません」と言います。
しかし、障害のある子どもが普通学級に通うのは、べつに20年か30年後の社会を良くするためではないのです。
なのに、「これに尽きます」って勝手に期待されても…、と思います。

 

次にあげる文章は、みわに比べれば、幾分はそのあたりを捉えています。
社会学者の三井さよが書いたものです。

Amazon.co.jp: 支援vol.5: 「支援」編集委員会: 本
の59~72ページ「就学運動から学ぶもの」

就学運動は、しばしば「差別のない社会」を目指すためになされていると言われ、実際、書かれたものの中では、分けられずに育った子どもたちの差別意識のなさが指摘されることがある。
しかし、ここには実はかなりの矛盾がある。

ヘルパーとして働こうとする人も少なく、たとえ友人だった障害当事者のもとへも介助に入ることには抵抗感を示す人が多いという。
だが、たとえば、同じクラスで過ごしてきた重度知的障害/自閉の当事者が一人暮らしを始めると聞くと、ごく当たり前のように、「ああ、そうなんだ」と自然に受け止める。

障害という社会問題に対して「意識が高い」人には、まずは自らと障害当事者とを分けて考える思考法が出来上がっている。差別が前提にあるから「意識の高さ」も成立する。ということは、そもそも友人を友人としてしか見ておらず、「障害者」という別枠の存在と見ていなければ、「意識」は「高く」なりようがない。
だから、就学運動はどこか自己否定の契機を抱えている。(66~67ページ)

ここで「自らと障害当事者とを分けて考える思考法」を「差別」としてしまっていますが、これは「差別」というよりは「区別」です。
なのに、これを「差別」と呼ぶことによって、差別感がある方がむしろ意識が高いというような、禅問答みたいな考察になってしまっています。
そして、そのことが「矛盾」だの「自己否定」だのといった、深刻じみた考え方につながっています。
さらに言えば、「支援する人=意識が高い」ことが自明の前提にされているからこそ、「矛盾」だの「自己否定」だのという発想になるのです。

文章の終盤では、次のように述べられています。

就学運動から学べるもうひとつ重要なものは、「支援」の発想は、結局はどこかで差別に基づくということである。「差別がない」関係は、支援には直結しない。言い換えれば、支援者だけに囲まれた生活は、差別者だけに囲まれた生活である。その意味では、「支援」という言葉はどこか自己否定を孕んでいる。(70~71ページ)

ここで言われていることは、みわの「支援者・援護者が日常的に近辺にいる環境」が良い、というような短絡的な主張に比べれば、だいぶマトモです。
しかし、ここまで書いておきながら、これに続けて、三井は次のように述べるのです。

かといって、「地域が見守るようになれば支援者は不要だ」というコミューンを待望するかのような議論も安易に過ぎる。現にいまの社会状況がある。既存のシステムとは別のところで生きる場を…といっても、主要なシステムから排除されれば他のシステムから連動して排除されるのが現状である。福祉や支援が差別を内包するから嫌だと距離を置いたところで、現状としてはそれがなければ何も始まらない。
だから私にとっては、「支援」という言葉は、常に歪みを孕みつつ、それでも追いかけざるを得ないものである。(71ページ)

ここでは、福祉や支援がある状況を「既存のシステム」「主要なシステム」と呼んでいます。

しかし、「いまの社会状況」の中の多くの人にとっては、福祉や支援などないのが「主要なシステム」です。
そして、普通学級就学運動が批判してきたのは、多くの人にとっての「主要なシステム」から排除されることであり、その意味での「主要なシステムから排除されれば他のシステムから連動して排除される」ことです。

三井は、福祉や支援がない状況は「コミューンを待望するかのような議論」「既存のシステムとは別のところで生きる場」と呼ぶように、社会の周縁にあるものだと考えています。
その考え方の延長線上にあるのは、社会の周縁に置かれることは社会的排除の状態であり、なので、福祉や支援がある状況の方が「主要なシステム」である、という論理構造です。
ここでも「主要なシステム」などと極端な呼び方をするので、自分で自分の主張をいたずらに面倒にしているのです。

もっとシンプルに、筋が通った考え方をしてもいいんじゃないか、と思います。

 

女優の東ちづるは、「Get in Touch」という団体の代表をしています。
Get in Touchの活動について、東はインタビューで次のように述べています。

時事ドットコム:「まぜこぜの社会」を目指して

――「Get in Touch」を立ち上げて3年目ということですが、マイノリティー(少数者)を支援する活動として、どんなことをされているのでしょう。

わたしたちの活動は「支援」ではないんです。マイノリティーと一緒に、誰もが「生きやすい」社会をつくっていきましょうというのが活動の趣旨です。「支援」をしてしまうと、「される側」との間にボーダーができてしまうので、「支援」という言葉は使わずにやっています。

 

――「支援」ではないとすると、「Get in Touch」の活動は何と表現しているのでしょう。
みんなで「まぜこぜの社会」をつくりましょう、ということです。生きづらさを抱えた人も、そうでない人も一緒に暮らせる社会です。

 

――いま「心のバリアフリー」という言葉が出ましたが、「支援しよう」ではなくて、まずは「生きづらさ」を抱えた人たちの存在に気付いてほしいという意味もあるわけですね。
そうです。ただし、触れ合って「どう感じるか」は、その人次第ですね。実際、「まぜこぜ」は嫌だという人もいます。そうした人も排除しないというのが、わたしたちの目指すところです。その人たちの意見も尊重する社会というのがいいなと思います。

 

――理念を押し付けないということでしょうか。
世の中、本当にいろんな人がいるんですよ。障害のあるなしに関係なく、すべての人がマイノリティーだというのは、そういうことです。いつ(少数の側に)入っちゃったのか分からないという状況は、誰でもあり得ることだと思います。でも、「まぜこぜ」の部分に誰もが入らなくちゃいけないということでもなくて、入りたい人が入ればいい、「気軽に」「自由に」生きられればいい。そういう理念で(活動を)やってます。

そして、東は、次のように述べます。

第6回 一般社団法人Get in touch理事長・東ちづるさん | インタビュー | キッズイベント

最終目標は「まぜこぜの社会」をつくることもそうですが、社団法人の解散ですね。このような組織の存在がなくても、「まぜこぜの社会」になることです。

このくらいシンプルな考え方でいいのではないか、筋が通った主張でいいのではないか、と思います。
普通学級就学運動のようなところとは関係ない立場から、こういう主張が出てきていることに、私は希望を感じます。