読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

相模原事件に対する報道や見解について思うところ

2016年7月に起きた事件について、それなりの文章を書こう書こうとしているうちに、まとまった文章を書けず半年以上が過ぎてしまいました。
事件そのものというよりも、それに対してなされた報道や見解について思うところを、あまりまとまりなく記しておきます。

終の棲家なんてとんでもない

事件が起きた日、夕方のニュースでキャスターとコメンテーターがこんなことを言っていました。
殺された人の最年長は67歳の人で、52年間この施設で暮らしており、終の棲家だったにもかかわらずこんな目に遭うなんて、と。
とんでもない話だと思い、フェイスブックで書いたのが、以下の文章です。

ドアの施錠は、侵入者を防ぐためではなく、入所者を出させないためのものだった。
入所者を出させない? まずそれがおかしいと、なぜ思わないのだろう。
この施設は、1964年に開設されたとのこと。
入所者の中には、開設当初から52年間入所している人もいるという。
入所施設を減らす、というのは障害者福祉のコンセンサスなはず。
その一方で、社会的入所を保障する場所が、こうやって保障される。

ニュースで、専門家だかなんだかっていう人が「強度行動障害」なんて専門用語を使っちゃっててさ。
入所施設にはこういう大変な人がいる(=こういう人は大変)。
⇒こういう大変な人がいるから入所施設がある(=当然あるべき)。
⇒こういう大変な人は入所施設にいる(=いるのが当然・当然いるべき)。
専門家だかなんだかっていう人にとっては、当たり前っていうことにして、やんわりと空気が醸成されていくのは、良くない良くない。

殺された19人が実名公表されなかったことについて、「実名がわからなければ、その人に思いを馳せることができない」というような文章を目にしました。
では、実名が出されたとして、見知らぬ人にでも悼むことができるのでしょうか。
実名よりも「52年間入所していた人」という事実のほうが、よほどその人の日常に思いを馳せることができる気がするのですが。

また、52年間も入所している人がいるという事実は、たとえ背後にどんな理由があろうとも、異常なことではないかと問いかけるのに必要十分だとも思います。
さまざまな報道や見解がなされ、この中では入所施設の問題も取り上げられてはいます。ただ、半世紀以上入所し続けている人がいることについては、触れられることが多くないように思います。

誰のための追悼?

8月6日、東大のキャンパスで追悼集会が開催されました。事件からわずか1週間半後のことです。
なぜこの時期に、この顔ぶれで「追悼集会」なるものを実施するのか、どうにも違和感があり、フェイスブックにこう書きました。

被害者の方々と知り合いではない人たちが、「追悼集会」を開催しちゃっていいのかなあ。
「考える会」とかなら、わかるんだけど。
被害者一人ひとりの、人となりがわからないのに。
それこそ、被害者一人ひとりを置き去りにしてしまうような。
追悼集会をやるなら、まず関係者が関与してやるものなんじゃないかなあ。
誰のための追悼?って、なんかモヤモヤする。

呼びかけ人の顔ぶれを見るかぎり、被害者の関係者は入ってないよね。いったい誰のための追悼なのかなあ?
障害者=当事者=被害者、ではないんですよ。

この追悼集会を主催した一人、小児科医で脳性マヒ者の熊谷晋一郎さんは、『現代思想』2016年10月号に掲載された文章で、冒頭、次のように述べています。

報道に触れた直後から、私は体調不良を自覚した。体が重く、風邪のようなだるさがある。脱力感と一緒に、怒りのような感覚もあるのだが、どこかで諦めているようでもある。当初はこの体調不良を報道と関連付けてはいなかったが、徐々に、自分自身の昔の記憶が侵入的に想起されるようになっていった。
(中略)
相模原の事件報道以降、気持ちが落ち着かない理由の一つは、リハビリキャンプでの記憶が侵入的に思い出されるからだということに、今朝、なんとなく気が付いた。(p.63)

そして、集会の様子について、次のように書いています。

呼びかけ人の一部がその場でメッセージを語った。その後、会場にマイクを回し、メッセージを語ってもらった。メッセージは互いに矛盾することもある。しかし、自分の内なるかすかな声や、他者の異なる意見に、静かに耳を傾けることが、ありのままの他者との連帯につながる。そう考えて、議論ではなく対話を徹底するため、語りがただ並べられる(juxtaposed)「言いっぱなし、聞きっぱなし」という、依存症のアノニマスグループで使われる方法で語っていった。(p.67)

これを読み、いっそう違和感が強くなりました。
突き放した言い方になってしまいますが、昔、自分が入所施設でつらい経験をしてそのトラウマがあるなどというのは、いわば「自分語り」だと思います。
そのような「自分語り」を「言いっ放し聞きっぱなし」することの、いったい何が、誰に対する追悼になるのでしょうか。

自分の忌々しい記憶を葬り去りたい。そのために、早く追悼集会をしたかった。
というのは、あまりに穿った見方でしょうか。

彼が推進している「当事者研究」でいうところの「当事者」とは何なのでしょう。上で書いたように「障害者=当事者=被害者」ではないのですよ。
「当事者」としての語りを「言いっ放し、聞きっぱなし」にすれば、被害者とつながることができ、それをもって追悼になると考えているのでしょうか。やはり私には意味が理解できません。

自分が「当事者」だということを一種の説得力にして、社会問題について発言する人は多くいます。
しかし、有名になったり発言力をもったりしている人の多くは、もはや「当事者」ではなく「成功者」だったりします。「当事者」を上手く脱出できた「成功者」であり、すでに「元当事者」なのだとわきまえながら発言するべきでは、と感じることがよくあります。

ヘイトクライマーなのか?

事件翌日の7月27日、障害者団体のDPI日本会議は「相模原市障害者殺傷事件に対する抗議声明」を公表しています。

神奈川県警の調べに対し「障害者なんていなくなればいい」という趣旨の供述をしているとも伝えられている。もし、これが事実だとすると、障害者を「あってはならない存在」とする優生思想に基づく行為に他ならず、私たちDPI日本会議はここに強い怒りと深い悲しみを込めて断固として優生思想と闘っていくことを改めて誓う。
近年、閉塞感が強まる中、障害者をはじめとするマイノリティに対するヘイトスピーチやヘイトクライムが引き起こされる社会状況の中で、今回の事件が起きたことを看過してはならない。

この声明は、この事件を優生思想にもとづくヘイトクライムだと断じたものになっています。しかし、こう断言することに、私は躊躇を感じています。

容疑者はヘイトクライマーなのでしょうか。ヘイトクライムを起こせば、ヘイトクライマーなのでしょうか。それとも、ヘイトクライマーが起こす事件がヘイトクライムなのでしょうか。

ヘイトスピーカーは、物理的にも心理的にもヘイトの対象と隔たれた場所に身を置いたうえで、また隔たれた場所にいるからこそ、ヘイトスピーチを行うものだと思います。
たとえば、在日コリアンの支援施設で働きながら、在日コリアンに対するヘイトスピーチをしているというような人は、おそらくいないでしょう。

しかし容疑者は、曲がりなりにも3年以上もの間、事件の数ヶ月前までこの障害者施設に勤務していました。

身も蓋もない話ですが、障害者と関わることは、言ってみれば実に面倒くさいことです。障害者と面倒な関わりをもつ職場で3年以上働き続け、しかもその仕事は自分から望んで辞めたわけではないらしいのです。
そのような容疑者について、ヘイトクライム的な事件を起こしたことをもってヘイトクライマーだと言うことに、どうにも違和感があります。

つまり、この事件はヘイトクライム的ではあるけれどもヘイトクライムではないのでないか、容疑者はヘイトクライマー的ではあるけれどもヘイトクライマーではないのでないか、と思うのです。

もちろん、容疑者の心理状態やおかれた環境などは構わず、ヘイトクライム的な事件はヘイトクライムなのだ、それを起こした者はヘイトクライマーなのだ、という潔い立場をとる人もいると思います。
しかし私は、この立場とは一線を画したいと考えています。

自分とは違う特異な人間が起こした事件だということにすることは、それによって溜飲を下げたい、ニュースとして消費したい、という感情が多少なりとも含まれているのではないかと思えます。

かといって「内なる優生思想」みたいな議論につなげたり、ナチスや石原慎太郎を引き合いに出すことにも、どこか違和感があります。
この事件はこの事件として、個別のものとして捉えたうえで考えていきたい、簡単に答えを出さないようにしたい、というのが私のスタンスです。
これからも考え続けていきます。