相模原事件に対する報道や見解について思うところ 2017/08

相模原殺傷事件に関する発言やら何やら、断片ながら見たり聞いたりしてきた。
言いたい人が言いたいことを言っているが、これは案の定。
それにしても目に余る主張があり、そのいくつかが「現実的」などと言われている。
こういうものに対しては、きちんと断固として「否」と言うべきだ。

福祉職は愛情がある、みたいなお花畑

雑誌『創』編集部が、植松被告に送った書簡(『創』2017年9月号 p.31より引用)。

あなたは津久井やまゆり園での職員としての仕事を通じて、そういう考えに至っていったわけですね。一般的に言われるのは、障害者と接している人たちは、世間の人と違って身近に接しているがゆえに障害者に対して愛情が生まれるということなのですが、あなたは障害者と接していった結果として逆というか…(以下略)。

どこの世界での「一般的」なのかわからないし、「愛情が生まれる」って、何それ気持ち悪いのだが。
たとえば教師とか警察官とかに置き換えてみれば、いかにお花畑な発想かわかるはず。

この書簡に対して、被告は全制的施設を引き合いにし、むしろ支配・被支配関係が生じやすいのだと反駁している。
この主張だけを捉えるなら、被告のほうが確実に的を得ていると言わざるを得ない。
(がゆえに、それをまるで他人事の批評かのごとく述べているところに、被告の心の闇を感じるのだが。)

入所施設を否定されると自分の仕事が否定された思いになる、などと意見している職員がいるそうだ。
施設を存続させるか否かの議論において、職員の職業アイデンティティを考慮する必要性がどこにあるのか。

こういう意見を言う場を与えられるのは、たいていベテラン職員。
思考が更新されていない職員が、自らの実践の素晴らしさを信じたいという、これまたお花畑なのだが。

T4作戦は国が行ったこと、である

この事件に関して、T4作戦を引き合いに出す人がいる。
現代においても優生思想が脈々と続いている、などと述べられる。
あるいは、現代社会の不寛容さなどに結びつけられたりする。

それらの文脈においては、「社会」や「私たち」が主語にされる。
しかし、わざわざT4作戦を引き合いに出すなら、これも言うべきではないか。

ナチスは、殺戮する前にまず、障害者を収容所に集めた。
これを含めた一連の施策が、T4作戦である。

そして、さらに重要なのは以下の点である。

コロニー政策は、社会防衛の一環として、国が行った。
この点こそが、T4作戦と共通しているのだ。

主語は「国」なのだ。なぜ、これを言わないのか?
なぜ、優生思想ばかりを言い、社会防衛のことは言わないのか?
かつて政策に加担し推進していたから言いづらいのか? などと邪推してしまうのだが。

500m圏内のグループホーム、何それ?

500m圏内にグループホームを3ヶ所か4ヶ所作り、基幹センターを設置すれば地域移行になるなどという主張がある。
バカではないだろうか? それ、まんま入所施設ではないか。
その500m圏というのは、やまゆり園がある千木良地区を想定しているのだという。
ちなみに、やまゆり園の敷地を端から端まで測ると、約300m。

グループホームは1戸あたり定員10人以下と定められているが、場合によって20人以下でも30人以下でもOKになる。
こういうものは法律ではなく通知や通達しだいだから、誰かの裁量で何とでもなる。
つまりは、30人定員のグループホームを4ヶ所作ったら、120人分確保できるわけだ。
やまゆり園の定員は150人。カレーライスとライスカレー程度の違い。

なのに、ライスカレーすら反対し、あくまでカレーライスの再建を主張する人たちもいる。
あるいは、まずライスカレーを作らなければ、カレーライスがいいのかライスカレーがいいのか選択できないという。

とりあえず私はあなたと、和洋中そこいらにあるものを食べたいのだが。