顔が名刺だ!――八木下浩一さんを偲んで

 八木下さんに初めて会ったのは1994年。当時、蕨駅前のマンションの一室にあった社団の事務所でのことでした。僕は、ボランティア365で浦和のぺんぎん村に派遣されてきたばかりで、よくわからないまま会議に連れてこられていました。

 色付きのメガネをかけていた八木下さんは、コワモテな印象でした。おずおずと挨拶したら、八木下さんからおもむろに返ってきた言葉は「俺は顔が名刺だ!」。もう26年も昔のことなのに、よく覚えています。

 その後、僕はアンテナショップかっぽの職員として働き始め、開店するまで社団の事務所で仕事をしていました。たまに八木下さんを呼んできてと言われ、マンションの下の階に住んでいた八木下さんの家に行くことがありました。八木下さんのお母さんに「浩一さんいらっしゃいますか?」と言っても伝わらず、「浩ちゃんいますか?」と言わなければいけなかったのが困りました。20歳そこそこだった僕にとって、50歳過ぎの八木下さんを「浩ちゃん」と呼ぶのには躊躇があったのでした。

 八木下さんと小田原道弥さんとの3人で、駅前の飲み屋に行ったりもしました。帰り道、八木下さんが駅前の大通りで立ちションするので、小田原さんが「もう恥ずかしいなあ。知らんぷりして行こう」と言い、2人でそそくさと離れるのがパターンでした。

 集会のたびに繰り広げられる猪瀬良一さんとのバトルも、その頃の僕には意味がわからないまま、ただただ面白がっていました。僕が直接知ってる八木下さんの思い出は、わりとしょうもないことばかりだったりします。28歳で小学校に入ったというようなことは、聞いたことはあったかもしれないけれど、よく知らなかったような気がします。

 そんな感じだったので、全障連の結成呼びかけ人だったり、代表幹事をしていたりということを知ったのは、15年以上も経ってからでした。河野秀忠さんや立岩真也さんの本を読んでいたら、名前が出てきてびっくりしました。こんな歴史上の人物だったのか!と。大学院に入学していた僕は、障害者運動の歴史について調べ始めました。

 2018年4月、交通アクセス行動の集会の会場になっていた川口市芝公民館に、八木下さんが来ていました。八木下さんは「雨宮は来てないのか?」としきりに言っていました。

 雨宮さんというのは、八木下さんが在宅訪問をしていた中で出会い、八木下さんが代表をしていた「川口に障害者の生きる場をつくる会」の中心メンバーになった人でした。その後、雨宮さんは運動の半ばで離脱して、会とは対立関係になっていったのですが、八木下さんとの個人的な関係はずっと続いたようです。

 八木下さんに会ってからしばらく後、雨宮さんはずっと前に亡くなっていたことを知りました。雨宮さんのお葬式のときに八木下さんが参列していたことも。

 昔の記憶と現在のことがごっちゃになっていた、と言えばそれまでだとは思います。ただ、この時この場所で雨宮さんの名前が出てきたことに、感じるところがありました。八木下さんは全国的な障害者運動にもかかわったけれど、やっぱり地元・川口に根ざしていて、ひときわ思い入れがあるんだなあ、と。

 そして、僕が知ってる八木下さんも、全国的な人というよりは「顔が名刺だ!」という人。八木下さん、しょうもない思い出をありがとう。

初出:『SSTK通信』No.215