ご近所さんが亡くなるということの遠さと近さについて

昨年の初夏、中心街のワンルームマンションから、街はずれの団地に引っ越しました。市街地まで行くのに、バスと地下鉄を乗り継いで1時間ほどかかります。

引っ越してきてから間もなく、同じ棟の同じ階段を使う人たちと顔見知りになりました。自分よりも年上の人ばかりで、けっこう優しくしてもらっています。
市街地までは少し遠くなったけど、ご近所さんとは少し近いです。

今年の春から夏にかけて、102号室と、その隣の101号室に住んでいた人が立て続けに亡くなりました。2人とも高齢の女性で、単身で暮らしていました。

102号室の人と最後に会ったのは、棟の入り口から家の玄関まで上がる階段でのことでした。
1階に住んでいても、階段を5段ほど昇らないと家に入れません。手押し車を持ち上げるのに苦労していたので手伝いました。その人自身、手すりにしがみつきながら5段の階段をどうにか昇れるという感じでした。
その数週間後、家の中で亡くなっているのを身内の人に発見されました。

101号室の人と最後に会ったのも、この階段でした。介護タクシーの人に手を引かれながら階段を降りているところで、こんにちはと挨拶をしました。
数日後、訪問ヘルパーさんがドアをノックしても応答がなく、鍵を預かっていたケアマネさんを呼んで中に入ったところ、部屋で亡くなっていました。

101号室の人の遺体が見つかった日は、ちょうど家にいました。
サイレンを鳴らした救急車とパトカーが停まり、警察の人もたくさん来たので、何事だろうと思って階段を降りていったら、ご近所さんたちも外に出てきていました。
しばらくして、布に覆われた担架が救急車に運ばれていきました。それを見送りながら、皆で合掌しました。

人が死ぬということは、自分が生きている世界からいなくなるのだから、いちばん遠くへと離れていくことなのかもしれません。
そう思う一方で、その人とほんの少しだけお近づきになり、自分の記憶の片隅に残っているということは、果てしなく彼方へと行ったわけではないような気もします。

生き残された人が勝手に感じているだけで、亡くなった人に対しておこがましいことかなと思いながらも、最近そんなことを考えています。

初出:『月刊わらじ』2016年10月号 特集「遠方より」