八木下浩一のいじめ観

Last Updated: 2021/08/21


八木下浩一,197202,「オレの30年」八木下浩一ほか『わたしの30年間』,pp.5-8.

 10才ごろから自分の力で歩こうと努力した。外に出ると子供にいじめられるが、そんなことに負けていたら自分がだめになってしまうので、外に出ることに努めた。
 身体のバランスがくずれるので、歩いている時転んでしまうことは数え切れなかった。転んだ時、頭をぶつけるのでよく切った。同じ方向ばかり転ぶので1ケ月に同じ個所を3回も4回も切ったことあった。医者へ行って縫ってもらい、ホウタイをしたところをまた転んで切ってしまうこともあった。それにいじめっ子が石をなげつけ、それが頭にあたることもあった。親は「危ない、頭をうつとバカになるから外に出るな」といったが、オレは外に出ることがオレにとって大切だと子供心にも思っていた。あの時、親のいうことをそのまま聞いていたら、いまのオレにはならなかっただろう。子供のころが一ばん大切だと思うよ。
 ……
 昭和29年3月ごろ(18才)再び芝小学校と入学交渉。学校側は「障害者だから普通の学校は無理、それにいじめられると可愛そうだし、ふんいきにもなれないことが多い。養護学校に行くほうがよい。」といった。これは学校側の意志だけでなく、教委の意向が加えられていたんだろう。障害者だからといってなぜ普通の小学校へ行けないのか、小さいながら莫然と「おかしい」と感じた。
 親は養護学校をすすめたが、オレは行きたくなかった。あくまで普通の小学校へ行くつもりであった。字などは家で覚えようとすれば覚えられるが、学校で覚えるものだと思ったから家庭教師は拒否した。
 みんなが学校へ行っている間オレは何をしていたかというと、午前中は電車に乗りに行ったなあ。改札口を素通りして入り山手線をぐるぐるまわった。午後になると、学校から帰ってきた年下の仲間を集めて遊んだ。野球をやったり、ビー玉やメンコをしたりしたが、オレは負ける方が多かったよ。だいたい同じ年あるいは、それ以上の連中はオレをバカにして相手にしなかった。ひどいやつになると、遠くから石を投げたり悪口をいったりした。(pp.5-6)


八木下とく,197202,「浩一の30年とわたし」八木下浩一ほか『わたしの30年間』,pp.9-12.

 近所で浩一をいじめる子はあまりなかったようです。小さい時からよく知っていたからでしょう。だから、時々遠くからいじめに来る子がいたんです。そんな子をみかけるとわたしはいじめっ子を追いかけ、時にはその子の家までどなりこんだこともありました。だって浩一がかわいそうでしたから。(p.11)


竹沢和恵・八木下浩一・平野栄子,19790925,「普通学級五年生になった和恵ちゃん」『季刊福祉労働』4,pp.51-62.

八木下 僕は養護学校があってもいいかどうかわからないけど、養護学校の一番悪いところは障害者がいじめられないということだと思う。和恵ちゃんがいじめられていやだと言っているが何故嫌なのか、また養護学校の中で嫌だということは感じないことじゃないか。
平野 そうね。こないだ養護学校の中で友達同士で遊ぶのと聞いたら、重度の子は全員で遊ばないんだって、中度の子は手が動いても言葉がでないとか、その子によって状態が違うから友達同士で交流するということはないみたいよ。
八木下 だから交流がないからケンカもしない。いじめることもされない。だから和恵ちゃんのようにいじめられることが嫌だよ、ということも養護学校の子は感じない。(pp.61-62)


八木下浩一,19800125,『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』現代書館.

 現に私の通った、芝小学校にも、車イスの障害者が毎日通っています。その子どもは、歩けないし、あまり片手はききません。そういう障害者が、小学校六年間毎日、学校に通う事が変な事のように思うかもしれないけれども、その子本人も全然何とも思ってないし、まわりの子どもたちも、べつに障害児だからといって、イジメたり、差別をしたりする事はありません。そういう事が学校の普通学級の中でやられて来ています。
 私はその障害児が、芝小学校の中で六年間を、普通児とけんかをやったりしながら学問を学ぶ事は、その子どもにとっては良い事だと思います。特に言いたい事は、まわりの子どもたちがその子どもを見た時に、いじめたり、仲間はずれにしたりすることにより、自分の問題としてとらえるきっかけが出来る事です。そこから休み時間、車イスをおして校庭に出かけて行って、一緒に遊んだりする、ほほえましい事が現実に起こっています。
 私の場合も学校で、言葉がわからないからとか、足が悪いから気持ちが悪いとかで、一部の子どもたちからイジメられました。今、芝小学校にいる五年生の障害児も多分そういう事を、子どもたちから言われている事でしょう。ですけども、イジメられなかったら強くはなりません。それは一部の子どもたちだけであって、それにまけたらしょうがないし、イジメられる事は当り前であって、それを乗切って友達関係が出来るのではないかと思います。私はそういう事をふまえて六年間の学校生活を終わりました。(pp.86-87)


八木下浩一,19811025,『障害者殺しの現在』JCA出版.

 健常児にとって、子どもの時から重度障害者を見たりさわったり話をしたりする中で、健常児の意識が変わっていくのだと思います。もちろんその中では障害者も共に変わるだろうと思っています。
 私の友達でも何人か健常児と一緒に遊んだり勉強したりしています。例えば学校の中で車イスで体育をやろうと思っても、はっきりいって今の体育の授業ではついていけません。しかし、健常児の生徒が体育をやっているところで、その車イスの子どもが自分なりにやればいいわけです。その車イスの子は、集団とは別に体育をやっても、仲間はずれとは思っていません。集団でやっている子ども達からも、その車イスにのった子どもに、逆に話かけてくる場合もあります。
……
 私は、地域社会と学校は相互関係があるのではないかと思っています。しかしながら養護学校にとって、地域社会はないと同じです。地域社会で何が起ころうが養護学校に通っている障害児には関係ありません。だから私の家の近所にいる障害児は、社会で何が起ころうと何があろうと全然興味を持ちません。興味がないのではなく、疎外感を与えられているから、物事に対する価値観が出てこないのではないかと思っています。
 ところで普通学級に通っている子ども達は、いやがおうでも地域社会の中でもまれなければなりません。そこでは、いじめられる関係とか、かばってくれる関係とかがあります。あの子は好きだとかこの子は嫌いだとか、同じ障害児の中でも普通学級に行った子どもは、見る目を養なえる関係が自然とできます。(pp.70-72)


八木下浩一,19830625,「あれだけ騒いだ普通学校に障害児が入った」『季刊福祉労働』19,pp.159-160.

 現在、学校では校内暴力があっちこっちで多発しています。校内暴力でもいろんな意味での校内暴力があります。
 一つに子ども達が先生をつかまえて、ぷったりけったり。もう一つは窓ガラスを割ったり、机や椅子をこわしたりして物にぶつかる。三つめには弱い者に対して集団でリンチを加える。
 以前にも上福岡で、在日朝鮮人の子どもをいじめて殺したという事件が起こりました。
 私は康治くんの通っている学校では、そういう事件が起こらないとは断言できません。大阪でも、障害児を普通学校に入れている学校がたくさんあります。
 ただ、私が聞いたことをいえば、普通の子ども達が障害児をいじめる傾向が多くなっています。どうしてそんなことが起こるのか、またどうやって、対処していくのかが今後の課題です。
 私はこういう校内暴力や弱い者をいじめることは、認めたくありません。
 しかし、表面上は、どの子も公平に、いつも子ども達のためにというような、甘いきれいごとで飾っている今の学校の状況では、障害児が普通学級において、いじめられたりするのは当然のことではないかと思います。
 確かに障害児が普通学校に入学できたことは、喜ばしいことではありますが、これですべて解決したわけではありません。
 障害児がこれから普通学級の中でどうやって位置づけられていくのか。
 なぜ、普通の子どもたちが障害児をいじめるのか。またそれをいかにエスカレートしないように抑えるか。
 根底にひそんでいる問題を考えていくことが私たちの課題です。(p.160)


八木下浩一,19860527,「障害者から見た学校とは」岡村達雄・古川清治編『養護学校義務化以後――共生からの問い』柘植書房,pp.185-203.

 ところでいじめの問題ですが、いま現在、統計をとったわけではありませんが、中学校では、五校に一校ぐらいは、いじめがあると聞いています。昔も、たしかにいじめがなかったわけではありませんが、昔とのちがいは、いまのいじめは、よってたかって、ひとりの子どもを徹底的にみんながいじめる。その場合、腕を折られたり、オナカを蹴られたり、頭を割られてしまったという例までもある。そのような表面化した例はむしろ氷山の一角で、もっともっと陰湿ないじめが日常化している。
 そういう問題がなぜ起こるのかをもう少し触れてみます。昔の場合は、子どもたちの中にボス的存在(がき大将)がいた。いまはボスがいなくなって、みんな同じになった。個性的教育などといっているが、実際のところ個性ある子はほとんどいなくなってきた。ボス的存在がでてこなくなった理由は〝モグラタタキ的〟管理教育のせいだと思うんです。ちょうど、モグラたたきと同じように、ボスがでてくると、先生が止めちゃう。モグラたたきでつぶしてしまう。みんな画一的な子どもができてしまう。ボスがいなくなるとともに、こんどは、いじめや校内暴力になった。それを、先生は見て見ないふりなしているという現状だ。先生におべっかを使う子ばかり増えてくる。
 また、PTAが先生を管理してもいる。「あの先生はいい先生」、「よくやっている先生」とか、「先生はなにを教えてくれているのか」など、これでは自主性はなくなり、校長やPTAの言うことをきくばかりで、いまの子どもと同じになっている。管理されているのは、子どもばかりか教師もである。こんな学校では、校内暴力やいじめが起こるのも当然であろう。(pp.192-193)

 私はいまの教育は、ゆがんでいると思っています。このゆがんだ教育を、どうやって変えていくか。いままで述べてきたように、校内暴力とか、非行の問題、いじめの問題、学校ぎらいを、どうやったら直せるのか、特に義務教育の中で行なわれている、学校ぎらい、つまり登校拒否を、どうしたら直せるのか。私にはわかりませんし、現場の先生にもわからないだろうと思います。中曽根はわかっているかと言えば、わかっていないと思います。ただ、ここからはあくまでも推測でいいますが、養護学校や特殊学級をいかに段階的に普通学級に統合させるかを考えなければ、いまの教育は変わりっこないと思うのです。そこから「ゆとりある教育」はでてくると思う。クラスの中で障害児のめんどうをみたり、障害児に普通の子が給食を食べさせたり、勉強をやらせたり、遊びの中から、ゆがんだ教育が直っていくんじゃないかと思う。
 もっと言うと、先生方も変っていかないと解決の道はないと私は思う。私はこれまで、いまの学校現場の先生の悪口をボロクソに書いたけれど、まだまだ、まともな先生もいる、まともな組合員もいる。そういう先生方が先頭になって、教育の中身を変えていく必要がある。障害児を手元で教えなさい。いい子ばかり教えないで、「ダメな子」とか養護学校の子を手元に受けとめ、教育を現場で変えることがここで問われている。
 このあたりから、障害者の問題も、いじめの問題も、解決するのではないかと思う。これなくして教育をよくしていく、校内暴力をなくしていくことは、できないと思います。(pp.196-197)


片桐健司・北村小夜・古川清治・山口正和・山田真・八木下浩一・岡村達雄,19860527,「座談会 いま、地域の学校は」岡村達雄・古川清治編『養護学校義務化以後――共生からの問い』柘植書房,pp.205-246.

八木下 ……あきらめきっている親たちがいっぱいいる。普通学級に行って苦労するなら養護学校でも仕方ないと思う親がほとんどです。ある親が「どうして普通学級にこだわるのか」と質問した。それに対して僕は、「地域で生きる場をもち、まわりの子どもたちが、あなたの子どもを見て変わっていく。本人はどう変わるかわかりませんが、友だちと思って、仲間とつき合うか、いじめるかはわかりませんが、まわりの子どもたちが変わるということに期待をかけるしかない」と説明したわけです。(p.217)


八木下浩一,19860925,「普通学校でいじめられる障害児」『季刊福祉労働』33,pp.86-87.

 ところで、最近普通小学校・中学校の中で、障害児に対するいじめが起こっています。いじめといえば、今までは健常児同士がいじめたりいじめられたりしていたのですが、最近は、健常児が障害児をいじめるという、当たり前と言えば当たり前、奇妙と言えば奇妙なでき事が起きてきているのです。
 これをみて、私はやっと普通の学校の中で、障害児が人間あつかいされようとしてきているのだと思います。今まで障害児は、いじめの対象ですらなかった。かわいそうな障害児、変な障害児ということで無視され、お客さん扱いされてきたわけです。
 ところが今、障害児がいじめられている。これはどういうことかというと、二つの側面が考えられます。一つには、前述したように、やっと障害児も普通学級の中で同じ仲間として認められてきたということ。二つめは、今までいじめの対象だった弱い者――勉強や運動ができない子、かっこ悪い子、人よりちょっと変わった子――そういう弱い者いじめを大人たちが押さえてしまったので、そのはけ口が、障害児にまわってきたというわけです。
 そういう奇妙な現象がある中で、教育関係者がどのように考えていくのかが、一つの見ものだと思っています。(p.86)

 私は、養護学校には絶対反対してきました。なぜかというと、その中にはいじめがないのです。養護学校の先生には無視され、機械的に扱われる。その中で差別にも気づかず、現実の社会の中で何が何だかさっぱりわからないという状態にあるのです。障害者であろうと、普通の人であろうと、温室の中で暮らしていては差別には気づかないだろうと思います。そういう意味で、障害児が普通学校の中でいじめられることはいいことだと思っています。
 しかし、その中で、いじめの問題では、限界があるということを付け加えておきます。例えば身動きのとれない車椅子の障害児が、よってたかってぶったり、けったりされるというのは、もはや〝いじめ〟ではなく、リンチ、暴力だと思います。
 限界をどこでどう見定めるのか、周囲の大人が子ども同士の関係、いじめの中身を見る眼をもつべきだと、私は言いたいのです。(p.87)